2009年06月07日

ノーシス入門講座の内容について

ノーシス入門講座の第一回目の内容として

「ノーシスについて」

「小宇宙としての人間の成り立ち」
これが一般的なテーマでしょうね。

まず自分という存在がどこから来てどこへ行くのか
そして いかに私達が自分について知っているつもりで知らないかを
振り返る 事が大事と思います

そして
「生命の起源」
公式科学の視点からではなく
ノーシスという視点からどのように生命を捉えているかを
説明すべきでしょう。

ここでは 宇宙の始まりと霊の起源についても軽く触れるべき
なのかもしれませんね

そして「宇宙と我々との関係」「永遠である命」
についても触れるべきでしょうね

私達の「魂 霊 肉体」についても言及すべきでしょう

そして「我々がどこに行くのか」についても

これらのことについて
サマエルの文献をもう一度読み込み
サマエルの教えにもとづいた講座をすべきだと思いますね。

posted by マリア・ステファノ at 22:06| ☁| Comment(54) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月07日

弁証法の革命第一章 必要条件

残酷な現実が我々に示すように、多くの人々はノーシスの秘教的仕事
(エソテリックワーク)の重要性を理解しておらず、
そして大半が「良き家のあるじ」ではない。

良き家のあるじでなければ、
ナイフの刃の道に入るための準備ができていないのは明らかである。
弁証法の革命において仕事をするためには、
良き家のあるじのレベルに既に達している必要がある。

狂信的なタイプ、偏執者、気まぐれな人などは
「インテグラル(総合的)な革命」に役立たない。
己の家庭の義務を遂行しない人は、大変化を遂げることは出来ない。
悪い父親、他の男、あるいは他の女のために家庭を捨てるような
悪い夫、妻であれば
根本的な変換をすることは決して出来ない。

「心理的革命」の基盤は次のような必要条件を満たすことである。
―家庭において完全ある均衡を保つこと。
つまり、良き夫、良き父親、良き兄・弟、良き息子であること。
苦痛に満ちた人類のために行うべき義務を完全に果たすこと。
慎みのある人になること。

これらの必要条件を満たさない人は、
このような革命的研究において、
実際のところ前進することは出来ないのだ。
posted by マリア・ステファノ at 22:36| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月28日

弁証法の革命第一章 実践(プラクティス)

私が人類に提供した書物のいずれかを、実践、あるいは体験、あるいは体現する人は
心理的に解放されることは明らかである。

肉体再付与(リーインカーネーション輪廻転生)やアトランティス、錬金術、エゴ、
あるいはアストラル・プロジェクションについて驚嘆に値することを話し、
外的世界においてはそういう事柄に詳しい人々がいるけれども、
それはただ頭だけでよく知っているにすぎない。
結局そういう人々は、何も知ってはおらず、
死ぬときには、ただ記憶に知識が蓄積しているにすぎないために、
あの世では、それらは何の役にも立たない。
なぜなら、相変わらず意識が眠りこけたままだからである。

単に理論に瓶詰めになっているのであれば、
何も実践したこともなければ、
今までに私が書いた本の中に教えていることを意識化しなければ、
知識を記憶の中に置きっぱなしにしてしているのであれば、
それは、惨めにも時間を無駄使いしたということである。

記憶とはインテレクチュアルセンターを形成する原理である。
人がもっと何かを切望するとき、
潜在意識の限界を通して見つめ、
そして記憶の中に蓄積されているものを見て、
そして秘教的な本に書いてある最近の出来事、もしくは教えについての分析、
あるいは瞑想するとき、
それらの価値は同じインテレクチュアルセンターの感情の段階に移行する。
その知識の持つ深い意味を知るため十分に瞑想すると、
そのような知識は感情センターに移行し、霊の奥底で感じられるようになる。

知識―エッセンスが認識できる価値―がうまく体現されたとき、
そのときには、最終的に意識に蓄積されもはや失われることは決してない。
そしてエッセンスはそれらの知識によって豊になる。

ではどのような形でノーシスの知識
―私が以前書いた書物、およびこの本にも載せている知識―
を意識化できるか理解してみよう。

瞑想は我々がノーシスの知識を意識化するための素晴らしい方法である。
しかしただ単に知識を理論、あるいは記憶の中だけに放置するという
過ちを犯さないようにしよう。
なぜならば、そのようなやり方では、決してマインド統治することはできないからだ。
posted by マリア・ステファノ at 21:34| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月21日

ティーブレーカー

物まねをしてちょっと一息つかせていただきます。いい気分(温泉)
さてオリンピックもあと少しですね。

ノーシスにも実は宇宙柔道があります。
「ああルーン文字でしょう」とお思いになる方、申し訳ない、それは浅学というものです。
ルーン文字も正しい姿勢と正しい意識で行うと、びっくりするくらいの変化が現れます。
そして本当の敵である我との戦いに大きな支えとなるのです。

詳しく書きたいのですが、残念ながら文字ではかけないので書きません。
一番いいのは何か古武術とかをされるとよいのではないかと思います。

ちゃんとしたところで習わないと多分一生分からないと思います。

もし何か武術を習うなら、少林寺のお坊さんが何故武術を行ったのかを
歴史からではなく内面から理解できると思います。
サマエルは意識の眠りについて説明する際に、よくボクサーについて語っていますが
正直言って東洋の武術とボクシングには根底で思想や技術、肉体と心に関する
考えに違いがあります。

私は山東省発祥のある武術を実践して試合にも出ていますが
中国の先生方はもう既に試合に出ることはなく
また他流のかたですが「戦わないのが最後の形である」
と話す方もいます。

カルチャーセンターで教えているカンフー体操ではたどり着けないTAOの
奥深さが真実の武術には隠されているのです。

さて能書きはここまでで

もしルーンを真剣にされるときは
次の点に注意してください

1 骨盤を立てること たいていの人は腰が反ったりして寝てます。
2 みぞおちを緩ませて下腹に力を入れること 1と2で股関節が自由になります
3 背骨を真っ直ぐにして 肩甲骨を自由にすること こうすると胸郭が広がります

本当は もっとあるのですが 書けば書くほど意味がなくなるのでやめます。
武術や気功で立禅というのを見たことがある人もいるとおもいます。
あれを習うとここに書いてあることは少しは分かると思います。

そして立禅ができるようになると、日常生活そのものが意識と体のトレーニングのなるのです。
たぶん 理解できる人は皆無だと思うのですが。

そういうわけで ティーブレーカーでした。
posted by マリア・ステファノ at 02:36| ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

弁証法の革命第一章  抵抗(力)

「抵抗力」とは、反対する力であり、「エゴ」の秘密の武器である。

抵抗力というのは、我々の心理的欠点が意識にとってかわるときに、
それを阻止しようとする「エゴ」の霊能力である。

「エゴ」は抵抗することによって、うまく切り抜ける傾向があり、
あやまちを言わずに済ませるため、あるいはあやまちに蓋をするために「言い訳」を請うものである。

「抵抗力」が働くため、夢を解釈するのが難しくなり、
そして夢自体について認識しようとしても曇って不透明になる。

抵抗力は、不愉快な心理的あやまちを「見過ごそう」とする防衛機構に作用して、
そのようなあやまちを意識せず、相変わらず心理的に奴隷のままでいるように仕向ける。

しかし、本当に、抵抗に打ち勝つことが出来る手法が存在する。
それは次のとおりである。

1.抵抗するものを調べる。(Recognize)
2.その正体を明らかにする。(Define)
3.それを理解する。(Understand)
4.それに対して働きかける。(Work on)
5.超性力学(Sexual Super Dynamic)によって、それに打ち勝ち、解体する。

だが、「エゴ」は自分の誤魔化しがばれないようにするために、
「抵抗力を検討」しているときに闘ってくるだろう。
というのは、エゴが我々のマインドに対して行使している統治権が危険にさらされるからだ。

「エゴ」と闘うとき、マインドより高等な力
―いわゆるインドの人たちが言う「蛇クンダリニー」の火―
に頼らなければならない。







posted by マリア・ステファノ at 00:54| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月16日

弁証法の革命第一章 K−H

世論の厳重な裁定を前にして私が言明しなければならないこと、それは、
あらゆるノーシス学徒にとっての基本的な目標は、究極的に「K−H」になること、
つまりコスモス・マン(kosmos hombre 宇宙人間)になることである。

人類は一つの宇宙(kosmos)に生きているが、この宇宙という言葉は
「秩序」(order)を意味しており、我々はこのことを決して忘れてはいけない。

宇宙人間とは、5つのセンターおよびマインド、そして魂(エッセンス)において
完全な秩序を保っている本質的存在(ビーイング)である。

宇宙人間になるためには、宇宙の原初の三つの力―陽・陰・中性―が
どのように表れるかを認識することを学ぶ必要がある。

宇宙人間に導く道は、まったくポジティブである。
しかしながらポジティブな力に対して常にネガティブな力が対抗する。

我々は「自己観察」をすることによって
反対する力の機構(メカニズム)を知覚しなければならない。

我々が特別な行為―エゴの根絶、あるいは性の統治、あるいは特別なワーク―を
実行しようと決心したとき、またはある決定した計画を実施しようとするとき、
それに対する「抵抗」力を観察し、熟考しなければならない。
というのは本来は、世の中とその内部機構というのは、往々にして抵抗を誘発する傾向があり
そのような抵抗には「2倍」(ダブル)の力があるからだ。

企てが大きければ大きいほど、抵抗する力はより大きくなる。
我々が抵抗力を「計算」する術を習得すれば、その企てを成功させることもまた可能である。
そこに天才の、光明(正覚)を得た人の能力がある。

posted by マリア・ステファノ at 12:09| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月06日

弁証法の革命第一章正反対の物事どうしの闘いB

Bokujo和尚に次のような質問がされた。
「我々は毎日衣服を着て、そして食べなければならないのか?
一体どうしたら、そのような事柄から逃れることが出来るのでしょうか?」
和尚は答えていった。
「我々は食べるし、服を着る・・・・・」
「私には理解できないのです」と、弟子は言った。
「それでは、そなた、服を着て、そして食べなさい」と、和尚は言った。

このことが、まさに、正反対の物事から自由になった行為そのものである。
食べますか、服を着ますか。
どうしてそれが問題となるのか。
食べている時、あるいは、服を着ている時、
何故、他の事を考えているのか?

もしあなたが食べているのなら、食べなさい。
服を着ているのなら、服を着なさい。
道を歩いているのなら、歩きなさい、歩きなさい、歩きなさい。
しかし他の事を考えてはいけない。
していることから逃げてはいけない。
行為から逃げてはいけない。
行為を、そんなに多くの意味や象徴、説教、警告といったもので一杯にしてはいけない。
比喩せずに、行為を生きなさい。
マインドを受容的にして、一瞬一瞬、行為を生きるようにしなさい。

今、私があなた方に話しているのは、
正反対の物事どうしが起こす、痛ましい闘いから自由になった、
解放された行為の道に関してであることを理解しなさい。

気を散らさず、逃げ道をつくらず、空想もせず
一切の抽象的概念のない、そのような行為。

あなた方の性格を変えなさい。
正反対の物事どうしの闘いから行為を解放し、
行為を知的にすることによって、性格を変えなさい。

空想の扉が閉じるとき、直感の器官が目覚める。

正反対の物事どうしの闘いから自由になった行為とは、
直感的行為であり、全体的行為である。

全体があるところには、「我」は不在である。

直感にもとづく行為は、我々が意識を覚醒させるまで手を引いて案内してくれる。

人生の流れに身を任せて、幸せに働き、そして休もうではないか。
習慣的な思考という、濁り腐った水を枯渇させようではないか。
そうすれば、無の中にノーシスが流れ、それとともに生きる喜びが湧き上がるだろう。

この知的な行為、正反対の物事どうしの闘いから自由になった行為は、
我々をある点まで上昇させ、そしてその点において、何かが壊れなければならない。
万事がうまくいくとき、思考の固い殻が壊れ、
そしてインティモの光と力が、夢想するのをやめたマインドにふんだんに入ってくる。

そうすると、肉体の世界にいるときも、そして肉体の外にいるときも、
肉体を休めて眠っている間も、完全に意識が目覚めて、正覚の状態で生きており、
高次の世界においても生命の幸福を享受することができる。

このようにマインドを絶えず緊張させておくことによって、このように訓練することによって
我々の意識を目覚めさせるにいたる。
もし我々が食べているときに商売のことを考えているのであれば、
それは、目が覚めているのではなく、夢想している。
仕事をしているときに、友達、あるいは兄弟などを思い出すのであれば、
それは明らかに夢想しているのである。

肉体の世界で夢想して生きている人々は、
肉体が眠っている間も、また内的世界においても夢を見て生きている。

内的世界において夢を見ることをやめる必要がある。
我々が肉体の世界で夢を見るのをやめたとき、今現在、ここで、目を覚まし、
そして、、内的世界においても覚醒状態になる。

まず、光明を探せ、そうすれば、その他のことはすべておまけとして与えられるだろう。
(M・S注 「まず神の国を求めよ、そうすれば他の事は全て添えて与えられよう。−イエスキリスト)

光明を得た者には道が見えるが、
光明を得ていない者には道が見えず、たやすく道からはずれ、奈落に落ちやすい。

夢想しないようにするためには、一秒一秒、一瞬一瞬、凄まじい努力と警戒が必要となる。
ほんの一分注意を怠ると、既にマインドは夢想しており、何かを思い出したり
そのときにしている仕事、あるいは行為とは異なった何か他のことを考えたりする。

我々が肉体の世界で、一瞬一瞬目覚めることを習得したとき、
肉体を休めて眠っている間において、そして死後においてさえ、
一瞬一瞬目覚めて、そして自意識(自己を知る意識)を持って生きる。

人類すべてが、
肉体を休めている間だけではなく、反語的に使われている、
いわゆる「起きて目が覚めている」状態の間においてもまた、
意識が眠り、夢を見ている、
ということを知ることは痛ましいことだ。

マインドの二元主義から解放され自由になった行為は、意識を目覚めさせる。

一章 正反対の物事どうしの闘い おわり


posted by マリア・ステファノ at 23:36| ☔| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月30日

弁証法の革命第一章正反対の物事どうしの闘いA

我々は、一方から正反対―勝利・敗北、快・不快、快楽・苦痛、失敗・成功、これ・あれ、などなど―
へ移って惨めに一生を送る。

我々は正反対の物事がなす暴虐な振る舞いから解放されなければならない。
それには、一切の抽象的概念がなく、夢想も空想もなく、一瞬一瞬を生きることを
習得して、初めて可能となる。

滝のように激しいにわか雨が降ったあと、道端にある石が、
色がなく、とても清浄になっている見たことがあるだろうか?
そういう時、人はただ「おー」という驚嘆の声を発するだけである。
我々は正反対の物事どうしの闘いが原因で
その素晴らしい叫び声を変形させないように、
物事の、その「おー」を理解しなければならない。

趙州は、南泉和尚に、次のようなことを尋ねた。
「TAOとはなんでしょうか?」
「普通の生活だ」と南泉は答えた。
「では、それに従って生きるためには、どのようにしたらよろしいでしょうか」
「もし、そなたがそれに従って生きようとすれば、そなたのもとから、さっさと逃げてしまうだろう。
そなたが、その歌を歌おうとせず、それ自身が自分で歌うままにさせておきなさい。
あのつつましいしゃっくりは、ひとりでに出てくるではないか」

次の言葉を思い出しなさい。
「ノーシスは行為の中に生き。抽象的概念の中では衰弱し、
そして最も高尚な思考の中でさえも見つけることは難しい」
posted by マリア・ステファノ at 23:01| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月27日

弁証法の革命第一章正反対の物事どうしの闘い@

ある偉大なマスターが次のように語った。
「光明(正覚 illumination)を探すがよい、さすれば他の全てはおまけとして与えられるだろう。」
光明に対する最悪の敵は「我」である。「我」とは、存在の流れにおける難点、
生命が自由に動き流れるなかでの致命的な障害物であることを知ることが必要である。

あるマスターに質問がなされた。
「どれが道でしょうか」
「なんという素晴らしい山だ」と、マスターは隠遁している、とある山にふれて言った。
「あなた様にお尋ねしているのは、山についてではなく道についてなのですが」
それに対してマスターは
「そなたが山の向こうに行くことができない間は、道を見つけられないだろう」
と答えたのだ。

別の僧が、そのマスターに同じような質問をした。
「あそこに、ちょうどそなたの目の前にある」と彼は答えた。
「どうして私には見えないのでしょうか?」
「それは、そなたが自己中心主義の考えを持っているからだ」
「見えるようになるでしょうか?」
「そなたが二元主義の見方をして、私には出来ないと言っている間は、
そなたの目は、その相対的な見方のために曇っているだろう」
「私も、そなたもない時、見ることが出来るのでしょうか?」
「私も、そなたもない時、一体誰が見たいのか?」

「我」の土台はマインドの二元主義である。「我」は正反対の物事どうしの闘いによって支えられている。

あらゆる理論付けは、正反対の物事どうしの闘いに、その基礎がある。
「誰々さんは背が高い」と我々が言う場合、それは低くないことを意味する。
「私は今、入っている」という場合、出ていっているのではないことを意味し、
「嬉しい」という場合は、悲しいのではないことを言明している。

人生の問題というのは、正極・負極という二極のマインドの形に他ならない。
「問題」はマインドによって支えられており、マインドによって作り出されたものである。
我々が、ある問題について考えるのを止めた時、その問題は必然的に終結する。

喜びと悲しみ、快楽と苦痛、善と悪、勝利と敗北といったものが
「我」の土台となる、正反対の物事どうしの闘いを作り上げているのだ。

posted by マリア・ステファノ at 11:44| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月22日

弁証法の革命第一章我を解体するための教授法A

複数の「我」が一瞬一瞬死んでいくにしたがって、霊的成分が我々自身のの内に蓄積していき、
それが意識の永続的中枢になる。

このようにして、我々は少しずつ個性を持つようになる。
つまりエゴを崩壊させて、個性を持つのである。
しかしここで明らかにしなければならないことは、それは個性が全てではないということである。
ベツレヘムの出来事(キリストの誕生)を経て、超個性へ至らなければならないのである。

「我」を解体するという仕事は、何かとても真剣なことであり、マインドのあらゆるレベルにおいて
それを深く調べる必要がある。「我」とは多くの巻から成る一冊の本である。

我々は自己の弁証法や思考、感情、行為について裁くことなく、
しかも処罰せずに一瞬一瞬調べる必要がある。
我々の持っている欠点の全てを、そして欠点の一つ一つを、
マインドの奥深いところ全てにおいて、総合的に理解する必要がある。

複数我は潜在意識である。「我」を解体したとき、潜在意識は覚醒意識に変る。

我々は、潜在意識を覚醒意識に変換する必要があるが、
それは「我」を根絶してのみ可能である。

覚醒意識が、潜在意識の居場所を占領するようになったとき、
我々は連続意識というそれを獲得する。

連続意識を持っている人は、あらゆる瞬間に
―肉体の世界だけではなく、高次の世界においても―
意識が目覚めて生きている。

現在の人類は意識の97%が潜在意識である。
そのため、肉体の世界だけではなく、肉体を休めて寝ているときに居る超感覚の世界においても、
そして死後の世界においても、深く眠りこけている。

「我」に死を与える必要がある。
今現在ここにおいて、肉体の世界だけではなく、
コスミック・マインドのあらゆる面においても、一瞬一瞬死ぬ必要がある。

我々は自分自身に対して無慈悲になり、自己批評という鋭いメスで「我」を解剖すべきである。



posted by マリア・ステファノ at 19:15| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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